成均館とは

一体どんな施設だったのか気になって、うぃきってみたけど日本のうぃきじゃ満足出来る内容がなくて本国からお借りしてきちゃったお。今後見るドラマでも出てくるかもしれないしってことで参考程度に残しておく。
ネタばれも含むので要注意


成均館は高麗末から続く朝鮮の最高教育機関だ。韓国の古い大学から その名称は高麗忠宣王のとき国学を成均館へ改名し始まった。恭愍王のときは国子監と呼んだが、すぐ成均館へ戻ったが1894年の改革のときまで朝鮮一代をかけて韓国の最高教育館だった。


■起源
高麗の最高教育機関である国子監が高麗忠烈王の時、成均監へ変わったが忠宣王の時、成均館へ変わった。その後も何度か改称したが1362年に成均館へ改称し、朝鮮へ続き朝鮮時代には成均館が漢陽と開城の一箇所ずつ二個が存在した。一方、高句麗の時から 国の最高教育機関を示していた名前の太学という名前でも呼んだ。正三位大司成が最高の責任者だ。


■入学資格
進士試と生員試に合格した人には優先的に成均館入学の機会を与え、その上に選抜試験である試験や高貴な人や役員の息子など過去に関わらず採用する制度を通じて入学することが出来た。定員は200名だったが流動的だった。また成均館儒生を学生。または成均館学生と呼んだりもした。


大概定員は200人で、ここに達成してない場合には史学生も嫡子、小科初試入格者、朝官などで補った。学生は下宿して齋に必ず留まって学令の校則を厳守しなければならない。彼らの自治活動で齋会という集会があり、掌議、色掌などの会長と幹部人を置いた。齋会は齋會を絶対的として学齢を破った儒生を咎め、退学させる権限を持っていた。そして、斯文有事や討逆がある時、齋會の発論で連命し上訴する。これを儒疏だといい、この集まりを大議事という。幼少時には史学で互応して宮門の前で連座して王の批答を待つ。儒疏が不如意な時は食事を断るデモとして捲堂を行いながらひいては成均館を留守にしてしまう空館という同盟休学に入る。これは博識者の世論を喚起する役目をした。その他に儒生は大科に受験することが出来る資格を持った。


太字にしたところドラマの中でも出てきたような場面だよね。こういう歴史物を見るときは韓国の基礎的な知識がないから「なんでなんで?」ってことが多くてモヤっとする。今回調べたことが今後の自分の身になればいーなー。訳は翻訳にかけて(←)絶対的におかしいところだけ直したから、文章変だったらごみーん。内容も間違ってたらごみーん。